2021/02/13

本能寺の変のとばっちりで死んでしまった穴山梅雪

本能寺の変のとばっちりで命を落とした穴山梅雪


2020年のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」がコロナによる撮影の遅れにより、例年のように年末では最終回にならず、2021年までずれこんで、2月の第1週にようやく完結しました。

信長と光秀の物語は本能寺の変で終了しましたが、自分が住む清水の江尻城主でもあった穴山梅雪もこの本能寺の変のとばっちりを受けて命を落としています。 

穴山梅雪は法名で本当の名は穴山信君(のぶただ)といいますが、梅雪のほうが一般に知られた名前になっています。

梅雪は武田氏の家臣で、武田二十四将の一人となっていたほどに家臣団の中では重要なポストについていた武将でした。 
母親は武田信玄の姉、妻は信玄の次女と、武田宗家との血縁関係もかなり濃いものです。 武田氏の中枢にいて軍師を勤めていた梅雪でしたが、織田信長による甲斐侵攻が始まる直前、あっさりと織田側に寝返りってしまいます。これには信玄の跡を継いだ子の勝頼との不仲もうらぎりの一因となっているようです。長篠の戦いの最中に戦線離脱してしまうほどですから、余程反りの合わない二人だったのでしょう。

 

武田氏の滅亡

天正10年3月、織田信長の甲斐侵攻により武田氏は滅んでしまいましたが、穴山梅雪は信長より甲斐河内領とこれまでの所領であった駿河江尻領を安堵されました。 月、この御礼を伝えるために梅雪は家康と共に安土を訪れ、そのあと家康と堺で遊覧していた時に本能寺の変が勃発。 これはヤバいと思った二人は堺を脱出し国に帰ろうとします。家康は二人別々に逃げたほうがいいだろうと、梅雪と分かれて伊賀越えコースで東に脱出に成功します。一方梅雪は木津川河畔(京都府京田辺市の山城大橋近く)で、落ち武者狩りの百姓勢に襲撃され、殺害されました。享年44。
一説には、後々邪魔になるかもしれない梅雪を家康が殺害したといった話も.....

 

梅雪の菩提寺、霊泉寺へ行ってみた

穴山梅雪の墓所は3箇所有るらしく、同じ清水区の大乗寺と残りの一箇所は梅雪終焉の地となった京都府田辺市の飯岡墓地になっています。

江尻城主だったこともあり、清水興津の井上にある霊泉寺は梅雪の墓所があるので行ってみました。

 霊泉寺は臨済宗妙心寺派の寺で創建は穴山梅雪になっています。 10年ほど前にもここを訪れていますが、寺のまわりの霊園はその当時より広がっているようで、名前も「清水霊園公園」となっていました。 

この霊園の奥まった所に霊泉寺があり、その裏手にある墓地の最上部に穴山梅雪の墓所がありました。 

墓所より折戸湾を望む
高い所にあるので折戸湾がみえますが、残念ながら梅雪の居城、江尻城(現在の江尻小学校辺り)の建っていた場所はここからは見えません。 

サビだらけの案内の看板はそろそろ作り変えたいところ



石塔の正面には「霊泉寺殿古道賢集公大居士」の戒名、側面には「天正十年六月二日」の命日が刻まれており、これはまさに「本能寺の変」の当日です。 

6月2日の未明に起きた本能寺の変の一大事が堺にいた家康や梅雪に伝えられ、これはヤバいと思った二人は別々に国に帰ろうとします。
この時家康は伊賀越えの道を選び無事三河に帰りますが、梅雪は田辺市の木津川河畔で落ち武者狩りにあいあえなく亡くなっています。 この当事の情報伝達のスピードは現在自分たちが思っているよりはかなり早かったようです。